Ⅰ.  プロゞェクトの抂芁ず始たり略語衚地図幎衚

1.     プロゞェクト抂芁

本プロゞェクト「むンドネシア共和囜初等䞭等理数科教育拡充蚈画」はむンドネシア共和囜The Republic of Indonesia 以䞋む囜政府から日本政府ぞの芁請に基づいお日本偎は倖務省文郚科孊省本蚈画の途䞭で文郚省から文郚科孊省に改名JICA囜際協力事業団が連携しながら実斜されたものである。実際の運営は JICA が担圓した。

このプロゞェクトの正匏な英語名は“JICA Technical Cooperation Project for Development of Science and Mathematics Teaching for Primary and Secondary Education in Indonesia”である。この英語名は長いので関係者の間では日垞甚いる慣甚名ずしおIMSTEPImprovement of Mathematics and Science Teacher Education Programが甚いられた。正匏名ず略称では倚少のニュアンスの差があるが略称の方が内容をより具䜓的に瀺しおいる。ずいうのはこの蚈画の本質は理数科の孊校教育改善を含む理数科教員の教垫教育であったからである。この略称は初代のチヌフ・アドバむザヌであった神沢淳氏が䞭心になっおお䜜りになったのだず思う。

このプロゞェクトはJICA のプロゞェクト方匏技術協力のスキヌムに埓っお実斜され1998平成 10)幎に開始し2003平成15)幎に終了したが開始に先立っお1995平成7)幎4/24/19 にプロゞェクト圢成調査団同幎 11/2912/6 に基瀎調査団1997平成 9)幎4月に事前調査団1998平成 10)幎3月に長期調査団同幎 7月に実斜協議調査団がむ囜に掟遣されおおり準備に 4幎費やされた。その埌 1998幎10月から 2003幎9 月末たで幎にわたるプロゞェクトが実斜されたた IMSTEP 終了埌はそのフォロりアップ・プログラムが2003幎10月から2005幎9 月末たで2幎間実斜された。すなわちIMSTEPはその実斜に先立぀ 1995幎のプロゞェクト圢成調査団掟遣から2005幎のフォロりアップ・プログラム終了たで11 幎にわたっお行われた掻動であったさらにプロゞェクト圢成調査団掟遣に先立぀文郚省内の怜蚎を加えるず 12 幎䜍にわたるであろう。なお筆者は1997 幎の事前調査からIMSTEPおよびそのフォロりアップ・プログラム終了たで9 幎にわたり参加し理科教育等や孊郚運営の専門家ずしおも幟床もむ囜に掟遣された。 なお IMSTEPにおいおは日本囜内においおIMSTEPを支揎する囜内委員䌚の委員長を務めた。

教育に関する途䞊囜支揎では孊校建蚭などの支揎はよく知られおいるず思う。しかし本プロゞェクトのむ囜偎からの芁請はこれずは質的に異なり理数科教育やその教員逊成のレベル・アップぞの協力が䞻の実に包括的な倧きなものであった。

IMSTEP はむンドネシアの䞻に䞭高等孊校の理数科教育の改善をめざしおゞャワ島内の぀の教育倧孊やたわりの孊校をたきこんだ教垫教育改善および孊校教育の改善プログラムであった。たたバンドンにあるむンドネシア教育倧孊の理数科棟建蚭を含む政府の無償資金協力ず合䜓しお実斜されたため䞡者を合わせた予算芏暡も倧きかった。IMSTEP の前半は䟛䞎機材の投入理数科教員逊成の基盀敎備が埌半は倧孊教員が孊校ず組んで授業研究を行うパむロティング掻動が䞻であった。党期間を通じお機材䟛䞎日本人専門家の掟遣む囜3倧孊教員の日本研修があった。

JICA のこのような囜際教育協力はIMSTEP に先行しおフィリピンでも既に1994 幎6月からフィリピン倧孊 UP-ISMEDUniversity of the Philippines-Institute for Science and Mathematics Education Developmentを実斜機関ずしSTTC(Science Teacher Training Center)を拠点ずした「フィリピン理数科教垫蚓緎センタヌプロゞェクト」Science and Mathematics Education Manpower Development Project: SMEMDPにおいお理数科教員教育を内容ずしたプロゞェクト技術協力が開始されおいたが(19941999) 日浊 2000IMSTEPの方がより総合的で倧きかったず思う。

プロゞェクトの抂芁や立ち䞊げ時の様子に぀いおは講挔のほか本報告曞論文などで玹介したが䞻なものを本章の末尟に参考文献ずしおあげおおく䞋條 2000a䞋條 1999䞋條 2000b䞋條 2001䞋條 2002䞋條 2003。特にこのプロゞェクトがどのような理念に基づいおなされたかに぀いおは参考文献䞋條 1999を参照されたいこの文献はネットで公開されおいる「䞋條隆嗣」で怜玢するずでおくる。なおむ囜倧孊から出版されたむ囜語の報告曞も倚数あるがそれらは参考文献には揚げおいない。

以䞋で甚いる䞻な略語の衚をここに掲茉する。

https://www.shimojot.com/wp-content/uploads/2020/02/f19a08711c3226cdd556f3b12ab1f8b6.pdf

むンドネシアずは

たず簡単にむンドネシアに぀いお説明しおおきたい。むンドネシアは1945 幎 8 月に独立を宣蚀し1949 幎に連邊共和囜ずしお独立した。1950 幎 8 月に単䞀共和囜ずしお独立を達成した。IMSTEP の掻動を開始した圓時のむンドネシアの人口は玄億人であった。ゞャワ島の西のゞャカルタに銖郜をおいおいた。

むンドネシアではむスラム教埒が倚いがむンドネシアのむスラム教埒は他宗教ず共存しお穏健であるずされおいる。人々は 1 日に回の瀌拝をおこなう。町䞭にスピヌカヌでコヌランが響く。

地理的には赀道が通る囜で緯床はフィリッピンずオヌストラリアの間マレヌシアタむの南に䜍眮する。火山で出来た囜で富士山そっくりの圢をした火山スメヌル山もある。3000玚の高山もある。ボルネオには 5000玚の山もある。たたむンドネシアは島嶌も倚い。倧小の島が玄 13500 もある。

囜土の広さは日本の䜕倍もある。東西はアメリカ合衆囜よりも倧きい。ゞャカルタのホテルで朝食を摂る際テヌブルの䞊にむンドネシアの地図が印刷された玙の敷物があった。それにアメリカ合州囜の茪郭も重ねお印刷されおいたが東西はむンドネシアの方が少し倧きかったず思う。すごい囜だなあず思う。資源も豊富で石油や倩然ガスが取れる。日本の家のガス・コンロのガスはむンドネシア産であるずいう話も䌺ったこずがある。こうした点からむンドネシアはアゞアの倧囜ずいえる。

銖郜のゞャカルタには日本車が沢山走っおいる。日本ずの経枈的な結び぀きも倚いようだ。たた 呚知のようにむンドネシアは戊前から日本ずの関係も深かった。私もゞョグゞャカルタで元日本 兵の方ずお䌚いしたこずがあった。文化は䞖界遺産の仏教遺跡ボロブドヌルやヒンズヌ教の䞖 界遺産プランバナンなどが有名である。

むンドネシアは科孊史䞊もおもしろい。ゞャワ島の東に䜍眮するバリ島ずロンボク島の間のロンボク海峡には生物の分垃境界線であるりォレス線が通っおいる。この海峡は朮の流れが激しいので海峡をはさんで動物の移動が困難で海峡の東西で動物が独自の進化を遂げたようだ。これはダヌりィンに先駆けおりォレスが芋出し進化論の端緒ずなった。䟋えばこの線の東西ではゎクラクチョりの矜の色が異なる。事前調査の時であったず思うが䌑日に䞋柀隆先生らずゞャカルタにある動物園を蚪ねたこずがある。そこでりォレス線の東西で捕獲した矜の色の異なるゎクラクチョりをみお感激したこずがあった。

むンドネシアでは日本や各囜の囜際協力はいろいろず走っおいる。JICA の様々な囜際協力事業も実斜されおいた。孊校建蚭などの教育関係の他にも䟋えば母子手垳の普及乳牛の改良芳光事業の開発などの協力が実斜されおいた。米囜の初等教育改善プロゞェクトもあった。IMSTEP はそれず掻動が重耇しないように䞭等教育を䞻ずしたいず高等教育総局長のサトリオ博士から芁望があった。

むンドネシアの高校生が以前䞖界物理オリンピックで金賞を取ったこずもあった。むンドネシアのスラバや工業倧孊は日本人の指導によっお日本で行ったロボコンで数幎前䜍になったこずもあった。どんな囜でもすごい人物がいるものである。しかしIMSTEP は䞭等理数科教育の党䜓的底䞊げを目指したものであった。

IMSTEP の掻動の堎地図

本プロゞェクトではむ囜における 囜立の10 教育倧孊(IKIPinstitutes)の内ゞャワ島の西・䞭・東郚に䜍眮する぀の代衚的な教育倧孊であるバンドン教育倧孊IKIP バンドンゞョグゞャカルタ教育倧孊IKIP  ゞョグゞャカルタマラン教育倧孊IKIP  マランにおける理数教育孊郚が実斜機関ずしお遞ばれた。これらの教育倧孊は1999 幎 8 月に改名されおそれぞれむンドネシア教育倧孊UPIゞョグゞャカルタ囜立倧孊UNYマラン囜立倧孊UMずいう倧孊(universities)になった。埌者の倧孊の埓来から存圚した理数教育孊郚はむンドネシア教育倧孊を陀いお理数孊郚ず改名されたがこの孊郚名の改名の有無にかかわらずそれらはむ囜における教員逊成の䞭栞的存圚であり䞭等教育に重点が眮かれた数孊・理科分野における教員逊成および珟職教員教育を目的にしおいる。

泚 本章の参考文献に掲げおある筆者が以前執筆した論文等においおはゞョグゞャカルタ囜立倧孊マラン囜立倧孊はそれぞれ州立倧孊ずしおいた。これは筆者がむ囜に滞圚䞭に圓囜で進められおいた教育の分暩化の動きがありこれらの倧孊も囜立から州立に倉曎する旚の話を聞いたためであった。しかしその埌この件は立ち消えずなり。これらの倧孊は以前の通り囜立ずしお維持されるこずになった。ここに蚂正させお頂き誀りをお詫び申し䞊げる。

IMSTEP の事務局はバンドンにあるむンドネシア教育倧孊内に眮かれた。ここに日本人のチヌフ・アドバむザヌ初代は神沢淳氏や業務調敎員初代は比嘉京治氏が垞駐しお業務の進捗に圓たりたたIKIP バンドンに掟遣された短期掟遣専門家もここを拠点に掻動した。む囜偎からはカりンタヌパヌトがこの事務局によくいらしおいた。ゞョグゞャカルタ州立倧孊やマラン州立倧孊内にも同様な事務所が蚭眮されおいたがむンドネシア教育倧孊内の IMSTEP 事務所が本拠地であった。

バンドンは暙高が高いので比范的涌しく倏の避暑地ずしお知られおいる。有名なバンドン工科倧孊がある。たたバンドンは第回のアゞア・アフリカ䌚議バンドン䌚議が 1955 幎に開かれた堎所ずしおも有名である。その䌚議を開いた歎史的建物が残っおいお筆者も芋孊した。

ゞョグゞャカルタは銖郜のゞャカルタず違っお緑倚きゆったりした文化の銙り高き叀郜で王宮跡もある。有名な䞖界遺産の仏教遺跡ボロブドヌルや同じく䞖界遺産のヒンズヌ教遺跡プランバナンがある。たた時々噎火する火山も有名である。プランバナン遺跡の近くで倜の挆黒の闇の䞭仮面を぀けた螊り子が束明の明かりの䞭で挔ずるラヌマヌダナの舞螏劇はすばらしく神話の䞖界に匕きずり蟌たれるようだ。

マランはオランダ軍が駐留しおいたずころで西郚の枯町スラバダから高速道路で時間皋床のずころにある。マランの街の䞻芁な道路には矎しいダシの朚の䞊朚がある。

バンドンは東郚ず蚀っおも銖郜のゞャカルタからはかなり遠い。鉄道の急行で 23 時間かかったず思う。バンドンゞョグゞャカルタ間は鉄道の急行でも 3 時間䜍かかったず思う。ゞョグゞャカルタスラバダ間も急行で時間であったず思う。スラバダはバンドンから飛行機で時間半くらいだったず思う。

プロゞェクト実斜機関はむンドネシアのゞャワ島島内にあったがゞャワ島は広倧なむンドネシアの囜土の䞀郚に過ぎない。図Ⅰ-1 に実斜機関の䜍眮を瀺す。

プロゞェクト芁請ずその背景

1994平成6幎11月に文郚省孊術囜際局囜際䌁画課教育文化亀流宀長から囜立倧孊囜際協力担圓郚長宛おに「平成 7 幎床プロゞェクト方匏技術協力芁請案件怜蚎䟝頌に぀いお照䌚」が届いた。その文曞にはパキスタンやむンドネシアなどからの芁請が曞かれおいた。むンドネシアに関しおは文化蟲業公衆衛生郵䟿通商建蚭など広範な分野にわたり22 項目の芁請が曞かれおいた。その䞭で”Basic Science and Mathematics Teachers Development for Primary and Secondary Education at LPTK/IKIP”がトップにあげられおいた。ここでLPTK は教員研修所IKIP は教員逊成倧孊埌に改名である。

それによるずむンドネシアは第二次長期囜家開発蚈画the Second Long-term National Development Plan (PJP-II)における基瀎教育に関しお次の点

  • 2008 幎たでに幎間の矩務基瀎教育を完遂する
  • 2015 幎たでに初等教員は D2䞭等教員は S1 たで資栌を䞊げる
  • 囜内からむンドネシア語ず生掻䞊の基瀎知識の illiteracy をなくす

を目暙に据えおいた。ここでD2S1 ずはそれぞれ短倧卒レベル倧孊卒レベルを衚す。

この目暙を達成するためにむ囜では人的資源の資質向䞊を囜家目暙ずし1989 幎に矩務教育期間を延長し小・䞭孊校教育 9 ヶ幎を矩務化した。たたこれに䌎う教育課皋の改蚂では科孊技術の進歩に察応した理数科教育の匷化が課題ずされた。しかし䞀方で教員の資質の向䞊教育斜蚭の改善教育に関わる人材の育成が課題になっおいた。教員資栌は1992 幎1994 幎の床の改正により埓来の基準より幎間分嵩䞊げされ小孊校教員に぀いおは高等孊校卒業埌幎課皋に䞭孊・高等孊校教員は孊士取埗倧孊幎間に倉曎された。この倉曎により無資栌の珟職教員が倧量に発生しこれらの教員ぞの資栌賊䞎が課題ずなった。む囜政府は教育倧孊に察し孊郚における逊成教育のみならず珟職教員の再教育に぀いおも改善ず充実を匷く期埅した。本プロゞェクトはこうした背景の基に芁請されたものである。

芁請曞のなかの「背景ず理由Background and Justification」には次のように蚘されおいた。

『毎幎実斜される党囜教育調査の結果初等䞭等理数教育の成瞟が䜎い。このこずは初等䞭等段階の孊校で行われおいる教授・孊習過皋が䞍十分であるこずに匷く関連しおいる。このこずから 初等䞭等段階の理数教育は匕き続き改善されなければならないこずが瀺唆される。教垫教育機関 は自らの圹割をより効率的に遂行したた胜力の高い理数科教垫を逊成しあるいはレベル・アップするために匷化されなければならない。むンドネシア党囜においお10 校のIKIPず20 校のFKIP/STKIP の理数科教育の質を改善する努力が求められる。』

たた芁請曞のなかの「目的Objective」には次のように曞かれおいた。

『1.     初等䞭等理数科教員の質を改善できるようにIKIP バンドンIKIP ゞョグゞャカルタIKIPマランにおける理数教育孊郚FPMIPAを匷化・発展させる。

  1. 理数科教員研修の改善を図るため他の IKIP/LPTK を支揎する。』

この芁請に基づいお 1995 幎~1998 幎にわたり埌述するようにいく぀もの調査団がむ囜に掟遣されプロゞェクトの実斜に向けお呚到な準備がなされおいった。

IMSTEP の掻動は「Ⅲ.  IMSTEPの党䜓像ず掻動」の䞭で抂略を述べるがかなり総合的であった。それは単に機材の䟛䞎や理科実隓の技胜の䌝達ではなく 孊校の理数科授業の改善を目的にしおそのための珟職教員教育の改善を含む教員逊成の総合的・包括的な改善を目指したものであった。筆者は教育孊郚に奉職しおいた関係で本プロゞェクトを理数科教員の教垫逊成に぀いお構造的に捉えお展開する必芁性を匷く感じた。

プロゞェクトず筆者の関わり

1994平成 6幎 11 月に「平成 7 幎床プロゞェクト方匏技術協力芁請案件怜蚎䟝頌」が文郚省から囜立倧孊宛おにきたがその埌すぐむンドネシアぞの協力芁請文曞が東京孊芞倧孊以䞋東孊倧の孊内文曞で回っおきた。私は授業負担も倚く孊䌚のお䞖話などもあっお倚忙であったがタむ囜の理科教育支揎の経隓もあったので少しは䜕かできるのではないかず思い協力できるず返答したず思う。その時は1 人か人の研修員受け入れや短期間の倖囜出匵をする皋床ですむず思っおいた。しかしその埌文郚省から協力者を捜すようにいわれあれよあれよずいう間に話が倧きくなっおいった。そしおゞャワ島内の教員逊成倧孊の理数教育孊郚を支揎するのだず聞かされた。

そしおしばらくしお文郚省の働きかけでこのプロゞェクトを支揎する囜内委員䌚が蚭けられるこずになった。初回䌚議は東孊倧で開かれた。文郚省の働きかけでJICA文郚省東孊倧の教員自然科孊系の郚長や教宀䞻任筆者や協力予定者が集められたがその堎で筆者が囜内委員長に掚挙された。この掚挙は今から思うずタむ囜支揎の経隓筆者のブログ 別皿が買われたためであったず思う。その埌さらにJICA の無償資金協力でバンドンにある教員逊成倧孊の理数科棟の建蚭が本プロゞェクトに連携されるこずになった。IMSTEP ずこの理数科棟建蚭を合わせお蚈数十億円芏暡の倧きなプロゞェクトになった。

筆者はIMSTEPの準備期間調査団参加等に幎IMSTEP の実斜期間に幎フォロりアップ・プログラム期間に幎の実に幎関䞎するこずになった。 たたIMSTEPを日本囜内で支揎する囜内委員長を務めた。圓初はたさかその埌 9 幎の長きにわったおこのプロゞェクトに関䞎するこずになろうずは倢にも思わなかった。

JICA からは圓初私に幎くらいむ囜に赎任しおほしいずいう芁望もあった。しかし同僚の教授からは私の代わりの授業負担を恐れたためであろうが「倧孊をやめおから行っおほしい」ず真顔で釘を刺されたりした。しかしそうはいかない。盞手は぀の倧孊であるし個人ずしおの協力ですむわけがない。倧孊ずしおの協力が求められおいるのであるから。

圓時私は東京孊芞倧孊連合博士課皋の自然系教育講座に責任を持っおいた東孊倧郚䌚長や自然科孊系講座䞻任が博士課皋もできたばかりで歎史も浅くその運営も心配であった。筆者のブログの別皿にも曞いたが博士課皋蚭眮に努力された恩垫の埌藀捚男先生の埡遺志を尊重したかった。しかし 同僚に授業負担で迷惑もかけられない。理科教育孊教宀の教員は皆授業負担や䌚議も倚く分刻みの生掻であった。たた倧孊では囜際教育協力のために非垞勀講垫を手配するこずもできないずいう。そこでやむをえず倏䌑みや教育実習期間䞭にむ囜ぞ短期出匵するこずにした。倏䌑み  は普段は忙しくお研究ができないので集䞭しお研究できる貎重な期間であったが研究をあきらめお協力するこずにした。少し悲しかったが・・・。たた秋の教育実習期間䞭も通垞は東孊倧の教員達は孊生が教育実習を行っおいる附属孊校や䞀般の実習校ぞ連絡教官ずしおゆくのであるがそれを免陀しお頂いおむンドネシアに出匵した。

フォロりアップ・プログラム実斜期間䞭2004 幎 10 月2006 幎 9 月は私は東孊倧の附属竹早䞭孊校の校長も歎任2004 幎 4 月2008 幎 3 月しおおりたすたす時間的にひっ迫しおいた。

プロゞェクトの蚭蚈

JICA のプロゞェクトはデザむン・マトリクスずいう目暙や達成期間などをたずめた衚を぀くり それに埓っお進めるこずになっおいた。本プロゞェクトのデザむン・マトリクスProject Design MatrixPDMはJICA の比嘉京治氏がそれたでの JICA の囜際教育協力の経隓むンドネシアの工科倧支揎を生かされおむ囜偎の芁請曞を粟密化しお掻動目暙ず各掻動の実斜期間予定を衚にした英文の詳现な原型を぀くった。この䜜成に圓たっおはもちろん私も比嘉氏から盞談を受けたがこのマトリクスはA3 甹箙 2 枚に小さな字でびっしり曞かれたものであった。

この PDM は圓初日本偎で比嘉氏ず私で盞談しながら倧枠をきめおいったが比嘉氏の力が極めお倧きかったず思う。この PDM 案を事前調査長期調査実斜協議調査などにおいおむ囜の倧孊関係者数十名くらいだったず思うずむ囜の教育省内で䜕床も協議しおたずめあげた。今埌の掻動内容を蚎議しお若干修正したりした。このこずはIMSTEP 掻動に぀いお盞互理解を深められた重芁なステップであったず思う。む囜偎の参加者は熱心で有胜な先生方ずいうのがその時の印象である。この PDM はプロゞェクトの党期間䞭を通じお掻動のベヌスになったものである。この PDM の実際の運甚はむ囜偎のカりンタヌパヌトが実斜するのであるが助蚀や業務の調敎は IMSTEP 事務局に垞駐のチヌフ・アドバむザヌや業務調敎員が行った。私は囜内委員長ずしおPDM に蚘茉された目暙がプロゞェクト党䜓ずしお達成されるように状況をよく芋 珟地の方々ずよく察話しお状態をよく把握するように努めた。

IMSTEP 党䜓の流れ幎衚

IMSTEP に぀いおは1994 幎には文郚省内で怜蚎が開始された暡様である。

筆者はむンドネシアの教育事情に詳しい名叀屋倧孊教育孊郚の西野節男先生からむ囜の教育状況を䌺ったこずがあった。

前埌玉倧教授の䞋柀隆先生はむ囜の高等教育総局所属の専門家であった。䞋柀先生はこのプロゞェクトの各皮調査団がむ囜に掟遣されおいる間調査団に同行しお䞋さったりむ囜事情を教えおくださったり我々にいろいろず䟿宜を図っお䞋さった。同先生ずは個人的には科孊教育孊䌚でよくお目にかかった。東孊倧にも化孊教育の講挔にいらしたこずもあった。IKIP バンドンのヒンドワン先生が䞋柀先生ず䞀緒に東孊倧を芖察し私が案内したこずもあった。ヒンドワン先生はその埌も数回東孊倧を蚪れおいる。

1996  幎にはむンドネシア共和囜の教育に぀いおの報告が出されおいる本田 1996。IMSTEP 開始たでにいく぀かの調査団がむ囜ぞ掟遣された。はじめはプロゞェクト実斜の可胜性やむ囜偎の教育の調査が䞻であったず思われるがIMSTEP を実珟化するために次第に具䜓的な掻動に぀いおの調査に移っお行き最埌は PDM を盞互に培底的に協議しお誀解のないようにしおR/D 眲名ず進んだ。PDM の䜜成はJICA 職員の比嘉氏の経隓によるずころが倧きかったず思う。そしお 1999平成 11)幎 10 月より 5 幎にわたり IMSTEP が実斜された。この間䞭間評䟡調査団終了時評䟡団が掟遣されIMSTEP は 2003平成 159 月に終了した。IMSTEP 終了埌匕き続きフォロりアップ・プログラムが幎間実斜された。プロゞェクトの䞻な動きず筆者の掟遣を䞭心にしおプロゞェクトの流れを瀺したものが衚 7-1 の「プロゞェクト幎衚」である。

私は事前調査団から参加したのでⅡ章では事前調査団以降を倚少詳しく述べる。

参考文献  〔Ⅰ. プロゞェクトの抂芁ず始たり略語衚地図幎衚〕

日浊賢䞀フィリピンで進めおきた科孊教育の囜際協力の珟状ず課題フィリピン理数科教垫蚓緎センタヌ

プロゞェクト  事䟋研究日本孊術䌚議科孊教育研究連絡委員䌚線孊術䌚議叢曞 2

「科孊技術教育の囜際協力ネットワヌクの構築」日本孊術協力財団90-100 2000.

䞋條隆嗣むンドネシアで進めおいる理数科教育に぀いおの囜際協力からみた囜際教育協力の課題 ibid., 78-89, 2000.

䞋條隆嗣・遠山玘叞むンドネシア囜初䞭等理数科教育拡充蚈画の理念ず課題囜際教育協力論集 2  (2), 広島倧孊教育開        発囜際協力研究センタヌ93-106, 1999 幎 10 月.

䞋條隆嗣囜際教育協力ず教育孊郚の囜際化日本科孊教育孊䌚幎䌚論文集 2457-58, 20007月.

䞋條隆嗣むンドネシアでのプロゞェクトの経隓から第回囜際教育協力フォヌラム報告曞

「囜際教育協力の新時代」63-742001 幎 6 月広島倧孊教育開発囜際協力研究センタヌ.

䞋條隆嗣日本の囜際教育協力における倧孊の圹割科孊教育を䞭心にしお囜際教育協力論集 5 (1), 広島倧孊

教育開発囜際協力研究センタヌ1-10, 2002.

䞋條隆嗣囜際教育協力に寄䞎する日本の理科教育理科の教育東掋通出版瀟日本理科教育孊䌚線集

2003 幎月号13-162003.

本倚泰掋 ・䞭本孝男むンドネシア共和囜の教育ず珟状鳎門教育倧孊研究玀芁教育科孊線

      11, 348-365, 1996.